The arts of gravity

アート全般に関する評論もとい紹介

ウィリアム・ホルブルック・ビアードについて

 

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ビアードは動物の絵画で有名な画家である。

主にクマ、サルなどがお気に入りで、多くは人間味に富んでおり、絵からは声が聞こえてくるようである。より確信を持っていえばビアードの描く動物たちは鳴き声ではなく、声を発するのである。

しゃべる動物のどこが珍しいのかと、いろんな作品に出会ったことのあると自負している人はおもうかもしれない。様々なものが喋れるように半擬人化され、枠で区切られ、セリフをつけられている現状を見ればそれは極自然なことだと。

ただ、よく考えれば動物が人の言葉を喋っているように見えるのは不思議なことである。恐らく絵だけの効用ではあるまい、主にセリフの影響なのだ。

実際、しゃべる猫だとか犬だとか検索を掛けてみるとそれらが出ている何かの漫画の一コマが出てくるがセリフがないと途端に何を言っているのか想像できなくなる。悲しそうだとか嬉しそうだとかニュアンスは分かるものもあるがそれ以上想像するのは難しい。漫画というものは枠の連続性によって物語を進めるものであるから、これは妥当であるが、端的に絵として捉えればビアードを上回るのは難しい、それだけ大いに評価される表現や想像性を彼の作品は持っている。

 

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例えばこの絵、物語を想像させるのに十分な力を持っている。親グマと子グマ。愛おしそうに撫でる片方と恥ずかしそうにしながらもそれを受け入れる一方。

親グマの手には何かがあることから子グマがそれを拾ってきて渡して褒められているようにも見える。あるいは右奥の子グマとその何かを巡って喧嘩をして、説教を食らった後、それでも愛されているということを伝えられている最中かもしれない。

 

 これだけ想像を掻き立てられ、愛くるしい絵画は当時にしろ現代にしろ稀であろう。

 

 

 

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モルデカイ・アードンについて

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モルデカイはクレーの影響をよく受けていると言われている。

 

何が描かれているのか明確には分からない抽象性、不正確な図形の採用は確かにその証拠のように思えるし、彼らがドイツ・バウハウスにて一時生徒と教師という立場にあったことはそれを決定づけている。

 

ただ、描かれているものはクレーの内向的な性質に比べるとかなり外向きな印象を与える。多くの作品に見られる鮮烈な色使い、空や特に宇宙を喚起させる構図はその時代宇宙が身近なものになったのだろうなと横道に逸れて考えさせられる(逆にいえばクレーは全く宇宙に触れることができなかったのだろうとも)。 

 

もちろん、そんな背景を気にせずとも絵の圧倒される包容力を感じられると思う。

 

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クトゥルフ神話に代表されるコズミック・ホラーは自分たちの理解できない価値観、感性が恐怖を感じさせるものだが、モルデカイのものは同じく理解不能なものでもそれに守られている、包み込まれているような感覚を受ける。

 

政治的、社会的な利用を受けない純粋な芸術を信仰していたモルデカイならではの作品だと言えるだろう。

 

 

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アブラハム・ファン・ベイエレンについて

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 Photo by年老いたヤンキーと出会った

 

アブラハムバロック期の画家と呼ばれている。

 

バロックは誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられるが、もともと強調表現が行き過ぎて品位に欠ける歪なものという意味で使用されていた。

 

アブラハムの作品はもともとの意味でバロック的である。

 

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中央の煌びやかな光を受ける豪華なロブスターと果実たち。

 

それだけ見れば絢爛さをイメージするが、作品を構成する他の要素を見ていくと途端に本来のバロック的性質が垣間見える。食材が零れ落ちそうになっている小さすぎるテーブル、傾いた食器、そして何よりも肌寒さを感じさせる薄汚れた青のカーテンと窓から見える荒野。

 

貧乏人が高い時計やブランド品を持ってもそれは貧しさを強調するだけだし

老人が不良を気取っていばり散らしても無力を強調するだけだ。

同じく、食材が豪華でもそれを取り囲む環境が貧困をイメージさせるものなら

途端に堕落や野卑と云った体が漂う。

 

肌寒い風が流れ込んでくる荒野の家に、高価な食器や食材を並べた人間は

どのような性質を持っているのか考えるのも中々想像が掻き立てられるだろう。

 

アブラハムは他にも静物を描いているが、どれも旧来のバロック的要素が

垣間見える。特に魚介類の描写はなんとも言えない悲しげな風情を絵に

醸し出している。

 

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ヘンリー・トーマス・アルケンについて

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あまり関わりのない人に趣味を聞いた時、当然のように「乗馬」という答えが返ってきたとする。

 

長年の習い事、または健康志向や物珍しさから比較的最近始めたのか。そんなことを思いつつ、なんというべきかと思索する。多少心得のある範疇から抜けているものにどう返せばいいのか。気心の知れた仲なら貴族趣味だとか金持ちだとか言ってみるのが場合によっては効果的かもしれない。だがそういうわけにもいかない、困ったものだ。

 

18世紀のイギリスでは財だけでなく教養のあってしかるべき者だけが馬を駆ることができた。当時に起きた産業革命は汽車によって庶民にも狩りを普及させたが、逆説的にはそれだけ馬が貴族の独占の中にあったということである。乗馬専用の服や帽子を着て、狩りに赴くのが当時の貴族の娯楽だった。

 

アルケンはそれに滑稽さという側面を見出した作品を度々出版した。

 

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馬を乗りこなせず、背から落ちたり木に引っかかる貴族たち。非常にユーモラスで思わず笑みがこぼれるが、引いてみればそれだけでなくこの時代には権威をある程度否定的に書けるようになっていたというのもわかる。民衆が力を持ち始めた啓蒙時代は風刺画というものをかなり盛んにしたらしく、特に貴族が槍玉に上がるのは珍しくなかった。

 

 

その中でもっとも陳腐なものは金や権力にがめつく、浪費が激しいといった権力者への典型的であまりに通俗的な批判を提示するものだろう。それを提示することは逆説的に金や権力を自由に行使するなという文句であり、これはどうしてもルサンチマンから抜け出すことができない。代わって優れたものは当時の政治的状況や文化を取り入れ、風刺の対象に恥を感じさせるものである。その点アルケンは当時の文化を取り入れながらユーモラスに貴族への嫌味を提示するのに成功している。

 

その他彼が描いたテーマとして冬の景色も素晴らしい。

 

 

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ピーテル・アールツェンについて

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特別目新しい話でもないが、私たちが知る中世がその時代を離れた作家、学者の手によって想像され、作られたイメージであること。そのことは良くも悪くも一般的である。

 

 

例えば中世ファンタジーと呼ばれるジャンルで良く見られるのは大きな城に石造りの都市、沢山の物が並ぶ露天の市、正しくないわけではないがだからといって中世という広い時代区分の中で普遍的というわけではないものを切り取って提示されたものを私たちはごく当たり前に享受している。

 

 

それに反旗を翻すのはピーテル・アールツェンという実際にその時代に生きた人間のイメージだ。中世と近世の間に生み出されたこのヨーロッパ画家の作品に感じるのは現代とは隔絶された時代の薫りである。

 

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画面いっぱいに加工された肉塊は雑多に組み合わされているようで一つ一つが力強い印象力を持っている。これは素晴らしい配色センスのおかげでもあるが、書かれている風景それ自体にも多大な貢献がある。

 

林の近くだろうか、野ざらしにされた牛や鳥の頭、肋の付いた巨大な肉を私たちは衛生法の観念からしてどこに行っても見ることは叶わない。商店街のどんなに古い肉屋にしてもこんな売り方はしないだろう。 

 

この野性味に富んだ世界はただの幻想ではなく、アールツェンが見た当時の風俗を元にしている。そう考えると私たちは原始時代に戻らなくても野蛮性を省みることができるようだ。

 

 

 

 

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ジェイコブ・ローレンスについて

 

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人生についての、価値観、哲学を起伏させること。

これこそが芸術家にとって最も重要である。

My belief is that it is most important for an artist to develop an approach and philosophy about life 

 

そう唱えたジェイコブ・ローレンスは主に黒人を主題にした画家であった。

 

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簡潔だが印象的なグラフィック、当時の黒人が置かれた状況を彷彿とさせるシーンの設定は芸術というよりは政治的な色彩を多分に含んだイラストレーションのように見受けられるかもしれない。

 

しかし最初に記した彼の言葉を踏まえると、彼自身は政治性を主としているわけではなく、あくまでも自己を表現するものとしてみていたようである。

 

そもそも彼自身を描く上で黒人の歴史に触れないというのは難しいに違いない。当時は政治が生死を左右する時代である。彼の出身地であるアメリカ南部では経済的差別だけなく、法を逸脱した私刑による黒人の死者があった。常に差別と共にあった彼は否応なく、政治的な色彩を使わざる負えない立場にあったのだろう。

 

しかしたとえ政治的な色彩を使っても、それが政治的な物でしかないというのは事を単純に捉えすぎだろう。彼自身もそう見られることを否定するような言動をしている。

 

 

私はいつも歴史に関心を持ってきたのだ。しかしそれらは頑なに、二グロ公教育について沈黙を保ってきた。アメリカ合衆国は二グロを含むことなしに語ることができないというのに。

私は、ただ歴史的なものとして絵を描いたつもりはない。しかしそれが今日の二グロを結びつけるとも信じている。私たちは本来隷属の気質を持つのではなく、経済的な隷属に甘んじているにすぎない。もし人々が今日よりも多くの悪習を捨て去ることができたなら、それらを克服できるはずである。きっと黒人も白人も同じように出来るようになる。私は政治的というより、芸術的である。ただ私のやるべき役割にトライしているのだ。

 

 

 

I've always been interested in history, but they never taught Negro history in the public schools...I don't see how a history of the United States can be written honestly without including the Negro.

I didn't [paint] just as a historical thing, but because I believe these things tie up with the Negro today. We don't have a physical slavery, but an economic slavery. If these people, who were so much worse off than the people today, could conquer their slavery, we can certainly do the same thing....I am not a politician. I'm an artist, just trying to do my part to bring this thing about....

 

 

これらの発言を念頭に置くと彼は黒人という自らのアイデンティティを否定することもしないが、それに依存するつもりもないのだろう。当時では信じられないほど、何の束縛もないかのように色彩豊かな色を纏った黒人たち。理想、つまり何が自分にとって素晴らしいのかただそれだけである。

 

 

 

 

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ラルフ・アルバート・ブレイクロックについて

 

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一週間ほど前の夜、田舎の直線道の百メートルほど先、道の端に一つの光が見えた。

 一見してそれはライトだとわかったが、自転車であるかは定かではない。その割には光が大きすぎる。

 

判別がつかぬまま近づいていくと初老の男性がカゴ付きの自転車を悠々とこいでいる。すれ違い、去ってゆく、それは案の定というべきか、唯の自転車である。

 

ただそれが私には少々驚きを持って迎えられた。自転車のライトは車ほど大きくなかったと思うのだが。

 

考えの正否を幾人に尋ねたが、やはり自転車の明かりはそこまで明るくないというのが多くの人の意見のようである。

 

 

より輝き、照らすことを本意とした光が増えてきている、そういうことだろうか?

 

 

ブレイクロックはそれに反して仄かな光を提供している。

 

 

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薄暗い森だが閉塞感はなく、不安感を彷彿とさせない

 

 

ブレイクロックは月光という題の作品を幾つも残している。この作品もその一つだ。

 

その他にも牧歌的な自然風景を多く描いているが、その殆どが夜や夕焼けといった間違えば恐ろしさが際立ってしまうような場面である。ただしそれらは殆どの場合、おおらかさや安らかさ、または神々しさを追求した作品であることに成功している。

 

 

 

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parabolic life

Parabolic life